ー「海事史研究」76号 2019年11月刊よりー
明治38年5月28日付『時事新報』最終記事
横須賀市西逸見町の安針塚に、ウイリアム・アダムズ(三浦按針)夫妻の宝篋印塔がある。逸見村220石は彼の旧領である。安針塚の発掘調査は明治38年5月23日から行われ、英国公使・神奈川県知事らが立ち合いのもと、坪井正五郎博士・柴田常恵氏により4日間にわたる大掛かりな調査が行われ、その結果、墓下からは遺骨・遺髪・遺物など何一つ出土せず、その速報は「時事新報」に4回にわたって逐一報じられている。このことは、すでに大正6年の加藤三吾著『三浦の按針』、昭和15年の幸田成友著『史話東と西』、昭和59年の岡田章雄著『三浦按針』によって紹介されている。
そもそも三浦按針夫妻の宝篋印塔は、子息ジョセフが按針の死から14年後、生母の死を機会に建立した供養塔である。「三浦古尋録』や『新編相模国風土記稿』にいう「遺言により江戸を一望できる、逸見村の高敞の地に葬られた」という記述は、この明治38年の発掘によって口碑であることが明確となったのである。
ところが、この発掘調査から110余年を経た2019年5月、三浦按針の菩提寺浄土寺が蔵する大正10年12月15日付「安針塚修理及保存ノ概要」のなかに、明治38年の安針塚の発掘調査で「深サ一丈許発掘シタルニ鬢髪等遺物ノ埋蔵シアリシ」と記された記事があり、これを浄土寺が発見したというのである。「埋蔵アリシ」は、発掘が行われて出土したことを意味する。
同書の誤謬は、すでに一部の研究者によって共有されており、今日の新発見ではない。無論、同寺には鬢髪も遺物も存在しない。そもそも頭髪と鬢髪を一意的に区別できるものなのか。
この浄土寺の文献の誤謬は、横須賀市が公表したことによって共同通信社より全国23社に配信され、各紙に一様に掲載され、インターネット上にも公開されている。公共機関が公表したことにより、史学専門部門までもホームページに紹介されている。これが事実化すれば、長崎県平戸市の三浦按針の墓地から西洋人の人骨が出土したと発表されたことや、大分県臼杵市や静岡県伊東市、さらに三浦按針の母国イギリスにとっても、この基礎的情報の誤謬は三浦按針の研究上、極めて危険である。
三浦按針をNHK大河ドラマに運動していることも あってか、某TV局から遺髪出土の件で問合せがあったが、誤報であることを説明した。極めて残念である。この誤報が大河ドラマ化運動に水を差すようなことにならなければと、願うばかりである。
この誤報が、未だ横須賀市のホームページ「NEWS RELEASE」https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0535/nagekomi/anjinhaka.html に「三浦按針墓に関する新たな発見」として掲載されていることから、某横須賀市民が再三に亘り訂正を求めたが、市は応じることはなかったという。
横須賀市在住の「Webサイト按針亭管理人」 (https://willadams.anjintei.jp/wa-14201-06.html )は 、明治38年の三浦
按針墓の発掘に携わった坪井正五郎博士と柴田常恵氏の「安針塚実査報告」を、国会図書館と東京大学大学院情報学環から見出し、2020年4月に自費出版して世に出した。これにより明治38年の発掘調査で、一寸余りの銅片のほか、何一つ証跡となるものは出土は なかったことが再確認された。これは彼の功績であり、一読する価値がある。研究者にも注目されており、これこそ全国の新聞各紙に公表されるべき「新たな発見」である。なお同書は2020年12月の時点、国立国会図書館、東京都立中央図書館、京橋図書館(東京)、神奈川県立図書館、鎌倉市中央図書館、三浦市図書館、平戸市図書館、臼杵市立図書館で閲覧できる。
以上のように「鬢髪の埋葬なし」が明らかであるのに、何故、浄土寺は誤報を訂正しないのであろう。この誤報は汚点として、英人を含めた三浦按針ファンの記憶から永く消えることはないであろう。
写真は発掘に携わった坪井博士と柴田氏の「安針塚実査報告」