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逗子ロータリークラブ 卓話「相模三浦一族と鎌倉幕府」鈴木かほる氏

第2245回例会 逗子ロータリークラブ  WEEKLY REPORT

2007-2008 №33 2008年3月6日
本日は、ゲストに歴史研究家の鈴木かほるさんをお招きして、卓話をして頂きます。鈴木さんは、三浦半島の豪族、三浦氏を研究し三浦氏にまつわる学術論文などを6年をかけて研究し、その足跡をまとめた「相模三浦一族とその周辺史」を出版されました。相模国三浦群を本拠とする三浦一族は、北条氏と並ぶ権力を持った有力な一族であったこと等、三浦氏の系譜もお話して頂けます。また、坂本龍馬の奥さんおりょうの生涯の本等、沢山の書籍を出版されています。会場の入口にて販売していますので、ご希望の方は、お申し出下さい。

■ 卓話 「相模三浦一族と鎌倉幕府」 鈴木 かほる氏
三浦一族は、五十代桓武天皇の流れをくむ桓武平氏である。でありながら源氏の筆頭家臣となった。三浦義継の「義」は、源義家から授けられた源氏の通字であり、この義継以降、一族は、実名に「義」をつけ義明、義実、義忠、義宗、義澄、義村、義盛と名乗っている。これは三浦氏だけである。三浦義明の娘は、源義朝に嫁ぎ頼朝の腹違いの兄義平を儲けている。義明は娘婿義朝と孫義平を平治の乱で失い、以後、関東の御後見は大庭景親となり義明の介職(スケシキ)は有名無実となっていた。したがって源氏の再興は、義明にとっても悲願であった。衣笠合戦のとき「子孫の勲功に募らんと欲す」と言って、子らを脱出させ城に一人残って自刃したのは、命を投げ打つ代りに、源氏再興の暁には、子らが幕府の要職に就くことを頼朝に暗に願ったものに他ならない。
義村の子泰村は、宋貿易の絶頂期に九州宗像(ムナカタ)社領を預かり、九州鐘ヶ崎と鎌倉和賀江嶋を執権北条氏とともに築港した。この東西の築港は、義村が執権の外戚として、もっとも良いコンビネーションのときに行われている。義村は、娘婿・中納言親秀(チカヒデ)(親季)を京とのパイプ役とし、子泰村を東使の役に就かせている。泰村の弟光村は、将軍頼経が二歳のときから昵近し、名越光時とともに側近集団の代表的存在であった。頼経の妻大宮局は、義村の娘婿親秀の姪であり、もう一人の二位殿も義村の意を受けて決定した妻である。将軍頼経の父九条道家を関白に復権させたのも義村であり、その関白道家の更迭を企て公家たちに恐れられている。王法・仏法、武芸・芸能を身に付け、関東を代表する権門として、京都政界に絶大な影響力を持つまでになっていた。
義明の死は無駄でなかった。その思わく通り、子義澄は相模守護(シュゴ)、御厩(オウマヤ)別当となり、孫和田義盛は侍別当(サムライベットウ)となる。一族の所領は、相模守護として相模川の交通の要所・大住郡田村渡しを押え、対岸の安房、陸奥会津や奥山庄、若狭(福井)、能登(石川)、遠江笠原庄、河内、紀伊、和泉、土佐、美作、讃岐(サヌキ)、壱岐(イキ)など全国に及び、中でも遠江、若狭は国司であり、さらに判官の職を得た。源義経が源氏の誉れとまで称した、あの判官である。
ところが泰村のとき、執権北条家から娶った二人の妻が病死し、父、執権泰時と相次いで死に、執権との絆が途切れたとき、安達氏により戦いを仕掛けられ滅亡したのである。 (中世史家)

■ ニコニコBOX (41.000円)
松井君…鈴木かほる様、三浦一族の話楽しみにしていました。インターアクターの錦君、台湾研修の報告よろしくお願いします。
矢部(光)君、長野(芳)君、市川君、山口君、船津君、湊屋君、坂井君、石田君…鈴木かほる様、卓話よろしくお願いします。
桐ヶ谷君…鈴木さん三浦一族の話、期待しています。
石黒君、毛利君、三宅君…鈴木様、「三浦一族」のお話楽しみです。
横瀬君…明日はうるう年のおくりもの。鈴木様、よろしくお願いします。
臼井

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