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朝日新聞 地域ニュース

「朝日新聞」2013年4月28日付   不思議 探検隊 

幕末の志士、坂本龍馬の死後、妻のお龍(りょう)は横浜の料亭で仲居をしていたという。どんな経緯で横浜にたどり着いたのだろう。
働いていたのは「田中家」(横浜市神奈川区)。東海道五十三次の宿場町、神奈川宿で幕末に創業された。そばに勝海舟が設計した砲台「神奈川台場」があった。役人や貿易商、志士、外国人らでにぎわった神奈川宿の中でも田中家は最も大きな料亭。勝も常連だったという。
 高知県立坂本龍馬記念館によると、龍馬の死後のお龍に関する情報は少ない。「史料が語る坂本龍馬の妻お龍」の著書がある横須賀市の郷土史家鈴木かほるさん(66)は、お龍を田中家に紹介したのは勝だったとみている。

 龍馬の死後、お龍は高知の龍馬の実家や故郷の京都で暮らしたが、1872(明治5)年ごろに西郷隆盛らを頼って上京。だが翌年、征韓論で敗れた西郷は鹿児島に下野して、お龍は頼みの綱を失った。助け舟を出したのが勝で、なじみの田中家に雇ってもらった、という筋書きだ。横浜駅から徒歩約10分。マンションが並ぶ住宅街で、いまも田中家は江戸の名残をとどめている。和服姿の女将(おかみ)平塚あけみさん(66)が三味線を手に出迎えてくれた。「先々代の主人は『お龍さんを世話したのは下野する前の西郷さんだった』と言っていた。真相はわかりません」
 田中家に来た当時は33歳。米領事館から英語の書物を取り寄せて勉強していた。「龍馬と行く約束をしていた米国に、独りでも行きたい」と主人や同僚に話した、と語り継がれる。女中のなかでも年長だったが、京仕込みのおしゃれさと月琴を弾きこなし、英語も話せたお龍は、接待の場で重宝がられたという。
 「いとし恋しおりょう」とつづった龍馬直筆の手紙が田中家にある。1867(慶応3)年に下関で待つお龍に長崎から送ったものだ。京都に赴いた後、下関に帰ると書かれているが、龍馬は同年に京都で暗殺されてしまう。
 35歳で客と再婚して横須賀に移り住み、名前も「ツル」と改めた。龍馬と親しかった長崎の武器商人グラバーの妻と同じ名前。平塚さんは「グラバーに憧れていたのか、ハイカラなツルさんに憧れていたのか。昔を忘れたくなかったお龍のこだわりを感じます」。
(山口博敬)




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