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産経新聞 『古事記』『日本書紀』倭建命・弟橘比売命の話

「産経新聞」 平成28年6月14日 (火)

 第6部 吾嬬(あづま)の国<1>  typhoonヤマトタケルノのまほろばwave

  暴 風 を 鎮 め た 妻 の 献 身

 <其より入り幸でまし、走水の海を渡る時に>
 焼遺の火攻めの謀略を返り討ちにした倭建命は、さらに東に進んだ、と古事記は記す。走水の海とは、相模国の三浦半島から上総国房総半島への海、現在の東京湾浦賀水道である。
 このルートは宝亀2(771)年、武蔵国が東山道から東海道に編入され、相模国が武蔵国と直結する以前の駅路(古東海道)。古代の人々は、湿地帯が広がる東海道沿岸を避けて海路を通ったのである。12代景行天皇の御子であるヤマトタケルノミコトも当然のように、この海路通った。最短距離7キロ程度かし、潮の流れが厳しい難所である。
 <其の渡の神、波を興し、船を廻し、進み渡らず>
古事記は、海を渡ろうとしたヤマトタケルノミコトの苦難をそう書く。日本書紀はそれほどの苦難を予想しなかったヤマトタケルノミコトの油断むにまで筆を走らす。
 <是小海のみ。立跳にも渡りつべし」とのたまふ。乃ち海中に至り、暴風忽に起り、玉船漂蕩ひて渡るべくもあらず>
 飛び越えてでも渡れるほど小さい海だと侮ったヤマトタケルノミコトを突然、暴風が襲ったのである。
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 「暴風の記述の背景には、三浦半島の勢力が大和政権に抵抗し、敗北したことがある」
 神奈川県藤沢市郷土歴史課の新井秀規学芸員はそう話す。大和政権の相模国進出は2段階とされる。3世紀末から4世紀前半、上下関係を固定しないゆるやかな同盟関係を結び、4世紀後半から従属を迫る進出があった。その際の戦いで、制覇権を握っていた地元勢力が「渡の神」のモチーフで゛はないか、という指摘である。
 同県逗子市、葉山町境で出土した長江桜山古墳群は4世紀代の築造。畿内式の前方後円墳2基で、いずれも県内最大級の全長90メートル前後あり、三浦半島の権力者を埋葬したとみられる。
 「この地方では4世紀中ごろ、急に大規模な前方後円墳が登場しました。抵抗する勢力が機内式を採用できたことは考えにくい」
 かながわ考古学財団の柏木善治調査研究部長はそう話し、同古墳築造の時代には三浦半島は大和政権に服属していたと推測する。
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 <妾、お子に易はりて海に入らむ>
 暴風に翻弄される船で、ヤマトタケルノミコトにそう言ったのは后、弟橘比売命だったと古事記に書く。オトタチバナヒメガ身を投じると、荒立つ波が収まった。
 同市横須賀市走水神社は、ヤマトタケルノミコトと共に弟橘媛を祭る。ヤマトタケルノミコトが臨時の御所を設け、軍旗を立てたと伝わる岬は御所ケ崎とも旗山崎とも呼ばれる。その沖合にはオトタチバナヒメが侍女と一緒に身を投じたと伝わる「むぐりの鼻」がある。
 「偉業の陰の妻の献身は、女性なしで歴史は語れないしことを示しています」
同市在住の歴史研究家、鈴木かほる氏はそう話す。

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