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江戸東京博物館友の会 会報94号 平成28年11

江戸東京博物館友の会会報『えど友』平成2811月 第94

 

168回 江戸東京博物館友の会セミナー(平成28年⒐月10

 

 演題「徳川水軍と向井将監」

 

講師 鈴木かほるさん(三浦一族研究会特別研究員)

 

向井氏について

 向井水軍というより向井将監といったほうが通りがいいでしょう。向井氏は伊勢から東国へ移住した海上軍事官僚であり、徳川幕府滅亡まで船手頭の筆頭の地位を保持しました。向井氏は源順義の流れをくむ仁木義長四子長宗が、伊賀国向庄を給され「向」を称したことが始まりとされます。向庄は伊勢国と伊賀国の国境に位置し、太閤検地で伊勢国に編入されるまでは、伊賀国と認識されていました。

「向井」と書かれたのは、正重の子政綱に宛てた武田勝頼朱印状に「向井兵庫助」とあるのが初見です。正重のとき伊勢から駿河へ移住し、今川氏や武田氏に仕えました。徳川家康に仕えたのは政綱からで、将監を号したのはその子忠勝です。以後、将監は向井宗家の称号として幕府滅亡まで世襲されます。 

 

船手頭の創設と御預け体制へ

 

 中世の水軍はほぼ「海賊衆」と呼ばれましたが、秀吉が天下統一する過程において「船手」の呼称が踏襲され、全国化していったようです。中世の軍制は、大名直轄の「寄親(有力武士)と、寄親に附属する「寄子」(与力・同心)という主従関係で成り立っていました。家康は、この寄親・寄子を大名から切り離し、徳川政権の新しい職制「御預け体制」の中に、「船手頭」と「船手組」(与力・同心)を組み込み、徳川氏の軍船と船手組を船手頭に預け、指揮する権限のみを与えたのです。つまり、船手頭は、軍船を所有しなくても、寄子を抱えなくても、海上活動が可能となったのです。

 

国際貿易を意識した城下町と海運の整備

 

 家康の関東移封が発表されたのは天正18(1590) 713日ですが、その10日前、家康は江戸の下検分を済ませています。小田原攻めの先陣を務める代わりに、源氏所縁の地・関東を所望したようです。松平から徳川へ、さらに源氏へ改称したのも、天下統一を見据える彼にとって、源氏の血統であることが必須条件であると考えていたからです。

八月朔日に「江戸御打入り」したのは、豊作を祝う「八朔祝賀」の日を意識したからです。これは領民支配を根本とする家康の「農根思想」、つまり農民を味方にする方策を反映したものです。 

家康の江戸開発は、海外貿易を視野に入れた城下町の建設と、港湾体制の整備でした。当時の江戸はいかにも粗相でしたが、だからこそ、思いのままの町造りや大改造が可能なのです。譜代家臣に土木工事をさせ、京都から茶屋四郎次郎らの政商を呼び寄せ、町割に関与させ、武士では成し得ない町造りをさせました。

そして、城下を輪番で警護させるため、旗本屋敷は一泊で通勤できる範囲に置き、特に船手衆の役宅は海上からの襲撃に備えるため、城下の河口附近へ置かれました。船手衆の本拠地は、江戸内海の入り口にあたる三浦郡三崎には四人衆を、上総富津には三人衆を置いて警護させました。この船手七人衆に対し、陸上の民政支配を掌る行政官が伊奈忠次や大久保長安ら四人の代官頭です。

家康が江戸を本拠としたのは、鎌倉にも小田原にもない、天然の良港浦賀があったからだと思います。家康は秀吉が逝去すると、百日忌も経ぬうち、潜伏していたスペイン人宣教師を招き、スペイン商船を浦賀へ寄港させるよう交渉しています。目的は、太平洋の荒波に絶える大型帆船の造船技師と、画期的な金銀製錬の新技術を導入することにありました。徳川政権を全国に展開していくためには、とりわけ金銀の増産が必須であります。浦賀湊にスペイン船を寄港させ、長崎・平戸に並ぶ東国一の国際貿易港とする構想があったと考えます。江戸内海に徳川水軍を置いたのも、スペイン貿易のためでもあったのです。

 

向井将監と三浦按針

 

 浦賀貿易の統括者としてスペイン貿易に関わっていたのは、向井政綱・忠勝親子です。三浦按針はその通訳として行動を共にすることが多々ありました。家康が按針を重用したのは、英蘭貿易ではなくスペイン貿易のためであり、そのため江戸邸のほか、逸見の采地と浦賀邸が与えられたのです。でなければ、ヤン・ヨーステンのように江戸邸のみを与えれば良いはずです。

スペインのようなカトリック教国は、商売と布教が一体化した理念を持つ国ですから、家康は通商をしたいがために布教を黙認し、江戸には天主堂を、浦賀には修道院の建立を許可しましたが、信者の増加を危惧して禁教令を発布し、さらに貿易港を長崎・平戸のみに制限しました。こうして、目的が達せられないまま、わずか10数年で終焉を迎えましたが、浦賀は国際貿易港として賑わい、欧州にその名を轟かせていたのです。

 

レポーターからひとこと

 ペリ-が来たことぐらいしか知りませんでしたが、浦賀の秘めた歴史を知る事が出来ました。 

 参加者000

 【記録】文:広報部会・光田憲雄

 写真:同・菊池真一

 

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