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三浦按針の「遺髪」は出土していないー明治38年「時事新報」の発掘調査報告よりー

三浦按針の遺髪は出土していない  
   ー明治38年の発掘調査報告よりー

  神奈川県横須賀市西逸見町の塚山公園の丘上・安針塚に、徳川家康の外交顧問・英人ウイリアム・アダムズ(日本名・三浦按針)夫妻の供養塔があり、現在は国史跡となっている。この「三浦按針の墓下から鬢髪が出土」の記事が、世間をにぎわせているが、これは、事実ではない。

 安針塚の発掘調査は明治38年(1905)5月23日より、英国公使マクドナルド氏・周布神奈川県知事らの立ち合いのもと、3日間に亘る大掛かりな発掘が行われ、その結果、墓下からは三浦按針の遺骨・遺髪・遺物などは、何一つ出土しなかったことが判明し、その情報は、当時の「時事新報」の記者によって報じられている。

 ところが、明治38年の発掘調査から一世紀余り経た2019年5月9日、横須賀市西逸見町の三浦按針の菩提寺の住職が横須賀市役所に訪れ、「横須賀市安針塚の墓碑下からウイリアム・アダムスの遺髪・遺物が出土したと記された浄土寺の「古い文献」を発見し、これを横須賀市が公表したという、驚くべき記事が目に飛び込んできた。逸見は三浦按針の旧領・三浦郡逸見村である。

 その浄土寺の「古い文献」とは、大正10年、同寺が記録した書物で、それには「明治38年の発掘調査で、三浦按針の鬢髪と遺品が出土し、按針の墓であると認定された」と記してあるという。これを、横須賀市が何ら裏付けを取らずに、新聞記者に公表したようである。この記事は、「日経新聞」2019年5月11日付夕刊、「神奈川新聞」同年5月9日付、「朝日新聞」同年5月13日付の地方版、「タウンニュース横須賀版」同年5月17日号、「毎日新聞」同年5月31日付の地方版など、一様に掲載され、デジタル版にも公開されている。この偽情報が拡散し、間もなく、情報科学研究所のホームページ・東海大学湘南キャンパス教育研究所に「三浦按針の遺髪出土記事」が引用されていることに気が付いた。

 昨今、インターネットは国内外で閲覧可能であり、三浦按針の墓から「鬢髪が出土」という誤報は、横須賀市という公共機関が公表したことによって事実化し、内外の研究者に大きな影響を与え、今後も与えるであろう。2019年に、長崎県平戸の三浦按針の墓下から出土した人骨を西洋人のものと断定した長崎県平戸市や臼杵や伊東、さらに英国にとっても、三浦按針の「鬢髪出土」という誤報は、今後の三浦按針の研究を進めていく上で極めて危険である。また三浦按針をNHK大河ドラマにという横須賀市の運動が実現した際、番組の中で「鬢髪出土」などと報道されると、大変なことになる。

 この誤報記事について、横須賀市文化財専門審議委員会の前委員長が横須賀市の担当部署に抗議したが、そのまま放置して置けば、後世、時代を経て、再び、浄土寺の文献が「新発見だ」と報道されてしまう事にもなり兼ねないと言い、そこで、私達は、誰を責めるという訳ではなく、後世に、正しい情報を伝える義務があると考え、ここに書き留めて置くことにした。

明治38年の「時事新報」の記事の紹介
 横須賀市按針塚の墓碑は明治38年5月23日より3日間に亘り発掘が行われ、結果は『時事新報』に報道され、その最終日の5月28日付の記事に「去る二十三日より発掘中(中略)大学教授柴田杖英氏出張鑑定の上、発掘をし居れども、證拠を得る能わずと云ふ」と記され、何も出土しなかったことを報道している。当時は「発掘調査報告書」なるものを作成しなかった時代であり、新聞記者が5月24日から3回シリーズで掲載したものである。このことは、すでに横須賀在住の著名な研究者・故高橋恭一氏が、生前、この『時事新報』の一連の記事を示し、大正10年に書かれた浄土寺の文献の誤りを指摘した遺構があり、このことは学会および横須賀在住の一部の研究者は承知している。つまり、浄土寺の書物は、今日、新発見されたものではないである。

 三浦按針の上司であった平戸商館長コックスは、その日記『リチャ―ド・コックスの日記』1621年12月29日条に「予は(アダムス)の遺言により、其脇差を其子ジョセフに渡したるに、涙を以て授受せり」とあり、鬢髪を渡したことは述べていません。鬢髪をジョセフに渡したとすれば、コックスは、日記にそう記した筈である。三浦按針を書いた書物はいくつもありますが、一般書は誤記であっても、そのまま孫引きするので「切っても、切っても、金太郎アメ」であるから、以下に、研究者が原資料から執筆した書物から、按針塚の発掘の部分を抜粋しておいた。

⓵岡田章雄著『三浦按針』思文閣出版1984年刊292頁
「明治38年5月22日に神奈川県知事と在留イギリス人立会いのもとに、塚の発掘が行われた結果、同所には遺体が埋葬された形跡が全くないことが明らかにされた」

②加藤三吾著『三浦の按針』大正6年刊60~61頁
「明治38年5月某日、英国行使サー・クロード・マクドナルド夫妻、周府神奈川県知事、ジェームス・ウォルター、ドクトル・ホイラー諸氏立会の上で発掘に着手したが、墓石の下からは何等の遺物も発見されなかった」。                    (鈴木かほる記)

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